中村 結衣VIEW PROFILE →
「光らない」分子が光った , 京大チームがアゾベンゼンの常識を覆す世界初の発光観測
光応答性分子として知られるアゾベンゼンは、これまで「光らない」のが常識だった。京都大学の研究グループが結晶の形を精密に操ることで、その微粒子から鋭い発光を世界で初めて観測し、次世代の光デバイスへの扉を開いた。
科学の世界では、長年の「常識」がある日ひっくり返る瞬間ほど胸躍るものはない。京都大学の研究グループは、これまで「光らない」と考えられてきた分子から、鮮やかな発光を世界で初めて観測することに成功した。対象となったのは、光に反応する有機化合物として広く知られるアゾベンゼンである。当たり前とされてきた性質を覆すこの成果は、次世代の光デバイスへとつながる重要な一歩と位置づけられている。
「光らない」分子の常識
そもそもアゾベンゼンとは何者なのか。二つのベンゼン環が窒素の二重結合でつながれたこの分子は、光を当てると形を変える「光応答性」を持つことで知られている。この性質を生かして、分子スイッチや光で動く材料など、さまざまな先端研究に利用されてきた。いわば、光を受けて働く分子界の働き者である。
ところが、この働き者には一つの大きな弱点があった。光を吸収しても、そのエネルギーの多くが分子の構造変化、すなわち形を変えることに使われてしまうのだ。その結果、余ったエネルギーが光として放出されることはほとんどなく、アゾベンゼンは「発光しない分子」として扱われてきた。エネルギーが発光ではなく運動に消えてしまう、それがこれまでの理解だった。
つまり、アゾベンゼンは光を受け取って形を変える「スイッチ」ではあっても、自ら光を放つ「ランプ」にはなれないと信じられてきた。この考えは教科書的な常識として定着し、研究者の間でも疑われることは少なかった。だからこそ、その微粒子が鋭い発光ピークを示したという今回の観測は、大きな驚きをもって受け止められている。
光を受けて形を変える「スイッチ」が、自ら光を放つ「ランプ」にもなりうる。
結晶の形を操るという発想

研究グループが着目したのは、分子そのものではなく、分子がどのように並ぶかという点だった。彼らは永久双極子モーメントを持つ「極性アゾベンゼン」に狙いを定めた。分子内で電気的な偏りを持つこのタイプのアゾベンゼンは、集まって結晶を作るときに特有の並び方をする可能性がある。鍵は、個々の分子ではなく、その集合体の構造にあると考えたのだ。
そこで研究チームは、結晶化させる際の温度を精密に調節するという手法を用いた。その結果、二つの異なる結晶多形、つまり同じ分子でありながら並び方の異なる結晶を、完全に制御して作り分けることに成功した。同じ材料から、狙い通りに別々の構造を生み出せるということ自体が、大きな技術的達成である。この「作り分け」こそが、発光という新しい扉を開いた。
こうして得られた特定の結晶構造から、これまで観測されなかった鋭い発光ピークが世界で初めて確認された。この研究は大阪大学や量子科学技術研究開発機構などとの共同で行われ、その成果は2026年3月30日に国際学術誌「Advanced Optical Materials」にオンライン掲載された。異なる分野と機関の知が結集したことで、常識の壁が破られたのである。
次世代の光デバイスへ
この発見が持つ意味は、単に一つの分子が光ったということにとどまらない。これまで発光材料の候補から外されていた物質群が、新たな光源となりうる可能性を示したからだ。使える材料の選択肢が広がることは、光を扱う技術全体にとって大きな前進を意味する。可能性の地図が、静かに書き換えられたと言ってもよい。
とりわけ重要なのは、分子の並び方、すなわち結晶構造を制御することで性質を引き出せると示した点である。材料の機能は分子単体だけでなく、その配列によって大きく左右される。今回の成果は、その配列を狙って操るという設計思想の有効性を裏づけた。これは発光に限らず、幅広い材料開発に応用できる考え方だ。
研究グループは、この成果を次世代の光デバイスへの重要な一歩と位置づけている。ディスプレイやセンサー、光通信など、光を利用する技術は現代社会のあらゆる場面に浸透している。新しい発光の仕組みが加われば、そうした技術に思わぬ革新をもたらすかもしれない。もちろん実用化には多くの課題が残るが、その出発点となる基礎が築かれた意義は大きい。
この物語が教えてくれるのは、常識とは覆されるためにあるということだ。「光らない」という長年の思い込みは、視点を分子から結晶へと移すことで打ち破られた。基礎研究における地道な観察と大胆な発想の組み合わせが、教科書を書き換える力を持つ。今回の成果は、その好例として記憶されるだろう。
そして、この発見は日本の基礎科学の底力を改めて示している。京都大学、大阪大学、そして量子科学技術研究開発機構という異なる強みを持つ機関が手を組んだことで、一つの常識が塗り替えられた。光らないはずの分子が放った鋭い光は、まだ見ぬ技術の未来を静かに照らし出している。その光がどこまで広がっていくのか、これからの研究に期待が高まる。





